教区の歴史

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聖パウロ女子修道会誓願宣立50周年感謝ミサ説教

2008年06月28日

2008年6月28日15:00~ 聖パウロ女子修道会本部修道院にて

 

朗読箇所
第1朗読  エフェソの信徒への手紙 1.3-6
福音朗読 ヨハネによる福音 15.15-16

 

「パウロ年」の始まる今日、修道誓願宣立50周年を迎えられた10人の姉妹たちに心からお祝い申し上げます。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」わたしたちは今日の福音であるこのイエスのことばをアレルヤ唱で唱えました。わたしたちはもちろん自分の意志で誓願を立て、あるいは叙階の秘跡を受けました。しかし、それは主が呼びかけ、主が選んで下さったからです。そして主がわたしたちを選んでくださったのはわたしたちにその価値があったから、ふさわしいからではありません。自分を振り返れば恥ずかしい限りです。その私を主はお選びになった。ですから、わたしたちは謙虚でなければならないのです。また、主がこの貧しいわたしをとおして働いてくださると信頼しなければなりません。 

明日は使徒ペトロ・使徒パウロの祭日です。召命といえばまずこの二人の使徒を思います。わたしたちはこの二人の使徒の召命の次第を知っています。二人はかなり違う事情、経緯で召されました。しかし、共に主のために働きローマで殉教しました。この二人について思うことは、先ほどの「パウロ年」開始ミサで申し上げたことでもありますが、二人の「弱さ」ということです。弱い二人が使命を全うして殉教しました。ペトロについて言えば、彼はイエスの受難のときに、イエスと生死を共にすると大見得を切ったのに、三度も主を知らないと言ってしまった人です。 

パウロについては自分で次のように述べています。パウロは非常に強い人、行動的な人、博識で雄弁な人と思われますが、他方ではそうでもないという見方もあります。「わたしのことを、『手紙は重々しくて力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない』という者たちがいる」(二コリント10.10)という箇所もみられます。また、彼は人間としての弱さをもっていたらしく、それを「とげ」と言っています(同12.7)。そのとげとは何であったのか、諸説があるようですが、彼はそのとげを取り除いてくださるよう三度主に祈ります。しかし、主の返事は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(同12.9)、というものでした。そこで彼は言います。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(同12.9-10)。この「弱さを誇る」というパウロの信仰に強く惹かれます。とてもパウロのような深い信仰には至れませんが、大きな慰めを感じます。神は人の弱さの中に力を現されるのです。 

わたしたちの召命を考えましょう。エフェソの信徒への手紙で言われています。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ1.4)わたしたちは神に愛され、神の愛によってこの世に生を受け、神に選ばれて生涯を神に捧げるべく歩んでいます。 

現代の教会が置かれている状況にはまことに厳しいものがあります。現代は生きるのに難しい時代ではないかという気がします。精神的な負担が多い、重いストレスが多い...心を病む人が多い...。先日、岩手県へ行きました。ここにはまだ温もりのある人のつながりがあります。都会の暮らしは大変です。人とのつながりが薄い、弱い...競争と管理の中で人々は孤独です。心を閉ざして自己中心に陥りがちです。信仰によるつながりを作り、確かめ、広げること、それが教会の使命ではないでしょうか。小さなことから始めましょう。ペトロ、パウロのような壮大なことはできませんが、わたしたちは日々小さな証しを捧げることはできると思います。