教区の歴史

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2007平和旬間 「平和を願うミサ」説教

2007年08月11日

2007年8月11日 18:00~ 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

 

 

聖書朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ12.9-18)
福音朗読 ルカによる福音(ルカ6.27-36)

 

 

皆様、今年の平和旬間のミサをこのようにしてご一緒にお捧げできますことはわたしの喜びでございます。 

まもなく8月15日を迎えます。1945年8月15日という日は人類にとっても、とくにわたしたち日本人にとってもまことに重要な日であり、決して忘れることのできない日であります。それはアジア・太平洋戦争が終わった日、そして第二次世界大戦が終結した日であります。多数のキリスト教徒もこの戦争に参加しました、というより巻き込まれたというべきでしょうか。わたくしども人類は、何度も何度も、戦争がいかに悲惨であり非人間的であるかを骨身にしみて体験し、恒久の平和を強く希求し、平和のために努力と協力を惜しまないという決意を新たにしたのであります。 

戦争は決して神のみ旨ではありません。今日の聖書朗読、福音朗読はそのことを明らかに、そして端的に教えています。イエスは、敵を愛するように教えました。敵というより(先ほどのシスター弘田のお話によれば)本来、人は皆兄弟姉妹であり敵は存在しないということかもしれません。パウロは、悪を憎みなさい、しかし自分を迫害する者のためには祈るように教え、悪に悪を返さず、すべての人に善を行うようにと諭します。これは暴力には暴力をもって応えないようにという「非暴力」の教えであると思います。非暴力とは、先ほどのシスター 弘田の話によりますと、行動、言葉、態度などで相手の心身を傷つけないこと・・・これはやさしいことではありません。しかし、このことを身をもって実現なさったのが人となられた神、ナザレのイエスなのです。わたしたちの歩む道はイエスの道しかありません。この聖書の教えを憲法に取り入れているのがわたしたちの憲法、日本国憲法であります。日本ではキリスト教はマジョリティではありません。日本国憲法は非常に福音的であります。この憲法、平和憲法という宝を大切に守り広げていかなければなりません。 

わたしたちの信じる天の父はすべての人の父です。神にとってすべての者が愛するかけがえのない子であり、神の前では敵も味方もありません。もし自分の子どもたちが争っているとしたらどんなにか心を痛められることでしょう。まして戦争をしていたらどのようにお思いになるでしょうか。戦争は殺し合いです。歴史をみればキリスト教徒同士が戦争をしたことは明らかです。キリスト教徒が敵対し、殺戮を繰り返し、それぞれ自分の神に戦勝を祈願しました。同じ自分の子どもたちから、そのような矛盾する祈願をささげられた神はどのように応えられるでしょうか。アジア・太平洋戦争のさなか、日本でいろいろな宗教が「戦勝祈願」を行い、日本のカトリック信者も同じように戦勝を祈らなければなりませんでした。他方、日本軍と戦ったアジアの人々の中にも多数のカトリック信者がいたことも確かです。相争うキリスト者が兄弟である相手を殲滅することを願うとはなんと悲しいことでしょう。願うべきは和解であり平和であり、それぞれの人の尊いいのちを守ってくださるようにということでなければならないはずです。 

最近、「戦勝祈願」についての有名なアメリカの第16代大統領リンカーンの演説を読み、深く感動しました。リンカーンはいうまでもなく南北戦争に勝利し奴隷解放を達成した偉人です。戦後民主主義の教育を受けたわたしの世代では非常に有名な代表的な偉人です。そのリンカーンがおよそ次のように語っています(以下に述べることは半分わたしの解釈かもしれませんが、本当にリンカーンは立派なキリスト者であると思いました)。 

「(南北)両者とも同じ聖書を読み、同じ神に祈り、そして各々敵に打ち勝つため、神の助力を求めているが、彼らの祈りもわたしたちの祈りも、神はそのままには聞きとどけられなかった。どれだけ神に勝利を願っても《生きた神》は北軍の味方でもなければ南軍の味方でもなく、そのことについて神の意志を知ることはできなない。どちらの勝利という問題ではなく。《奴隷制》という悪を如何に取り除くかが問題なのだ。何人に対しても悪意を抱かず、すべての人に慈愛をもって、神が我らに示したもう正義の実現に力を尽くそうではないか。すべての国民との間に、正しく恒久的平和を確立するために力を合わせようではないか。」 

この言葉にわたしたちも励まされ、何人にも悪意を抱かず、憎しみも恨みを抱かず、真実に基づき、忍耐を尽くし、希望をもって平和の建設のために祈り、力を合わせようではありませんか。わたしたちがそうできるためには、何よりわたしたち自身の心に平和がなければならないと思います。まず何よりも神との平和、神との和解の恵みがいつもわたしたち一人ひとりのうちにありますよう、切に祈り求めましょう。