教区の歴史

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世界病者の日 ミサ説教

2007年02月11日

2007年2月11日 14:00~ 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

 

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」 

主イエス・キリストのことばです。

今日は世界病者の日、・・・多くの人々が病気で苦しんでいます。このイエスのことばはそのような人々へ向けられていると思います。「わたしのもとに来なさい。・・・あなたは安らぎを得られる。・・・」

教皇ベネディクト16世はルルドの聖母を記念するきょう2月11日、第16回世界病者の日に際しメッセージを出されました。このメッセージの中で教皇は「病人の回復」である聖母の取次ぎを願って祈っています。「わたしたちの母である祝福されたおとめが、病気の人を慰めてくださいますように。そして、よいサマリア人のように、苦しむ人の身体的・精神的な傷をいやすために自らの生涯をささげるすべての人を支えてくださいますように。」 

病者の苦しみはもちろん病気そのもののもたらす不快・不自由・苦痛でありますが、さらに別な苦しみ、精神的な苦しみがあります。それは病者が受ける差別と排除、隔離からこうむる苦しみです。聖書にはそのような苦しみを受けていた人々が登場します。たとえば「重い皮膚病」を患っていた人々です。この人々は共同体のなかで忌み嫌われ、業病人として人々から隔離され、人との交わりを拒否される、という冷酷な仕打ちをうけていました。肉体的な苦痛にくわえて蔑視にさらされるという精神的な苦痛、人間の尊厳を奪われるという筆舌に尽くしがたい苦しみを受けていたのです。 

日本でもハンセン病の人々は同じような二重の苦しみを味わってきました。ハンセン病の人々は「らい予防法」によって社会から隔離されました。肉親からも見捨てられ、本名も名乗れない状態に置かれていた人たちもいます。それはハンセン病についての誤った認識、つまり遺伝病である、不治の病である、という誤解がありました。今日ではハンセン病は伝染力の極めて弱い病原菌による慢性の伝染病であり、乳幼児のときの感染以外は、ほとんど、発病の危険性はない、軽快した患者と接触しても、感染することはない、ということがわかっています。ハンセン病は治癒する病気であることがようやく明らかにされてきました・・・。そして1996年になってやっと、「らい予防法」は廃止されましたが、わたしたちの中に依然としてハンセン病についての偏見と差別が残っており、人々の苦しみは続いています。ハンセン病ばかりではなく、エイズについても、精神障害についても偏見が存在し、病者と家族、関係者は悩み苦しんでいます。 

肉体の疾患からのいやしは大切ですが、偏見・差別という精神の疾患からの癒しとあがない、解放はもっと重要ではないでしょうか。わたしたちはイエス・キリストによるあがないと解放を待ち望んでいます。それは神の霊によるあがないであり解放です。そしてそれは実に偏見と差別からの解放であります。

「わたしのもとに来なさい」といわれたイエスは差別と蔑視、偏見に苦しむ人々の仲間となり、その苦しみをともに担われたのでした。 

人は本来、神の似姿、神が「極めてよい」とされた神の作品です。しかし、蔑視と偏見の目にさらされている人がどうして安心してありのままの自分を人に委ねることができるでしょうか。忌み嫌われ、あるいは危険にさらされているときにどうして人はありのままの自分を表し伝えることができるでしょうか。

福音書のイエスはどんな人として描かれているでしょうか。罪人とされていた人々が安心してすべてを委ねることのできた人ではなかったでしょうか。自分の痛み苦しみを理解し受け入れてくれる、一緒に歩んでくれると信頼したからこそ人々はイエスに安心と救いを見出したのです。わたしたちもイエスに倣うものでなければならない!のです。自分自身の痛みを知るなら人の痛みにもっと心を開きましょう。自分自身、偏見と差別に覆われる人間であることを自覚し、謙虚な心に立ち返りましょう。人を一方的に決め付けていないか、静かに反省して見ましょう。お互い、安心して心を打ち明け委ねられる友となれますよう、聖霊の導き、支え、照らしを祈りましょう。アーメン。