教区の歴史

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年間第22主日 着座記念ミサ説教

2006年09月03日

2006年9月3日、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

 

「父はみ心のままに真理のことばによってわたしたちを生み被造物の初穂とされた。」

本日のアレルヤ唱です。わたしたち人間は神様がお造りになった神様の作品であり、「初穂」とされた存在です。創世記のことばを思い出します。

「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めてよかった。」(創世記1.13)神の最高傑作が人間です。人は神のかたどり、神に似たもの(1.26,27)に他なりません。

わたしたち人間は神様から出たものでありますので、神様は人間の故郷です。ですから、人は故郷が懐かしいし恋しいのです。わたしたちの祈りは故郷を慕うその思いです。 

今日の第2朗読、使徒ヤコブの手紙では「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」とあります。すべて良いもの、良い思いは光の源である神から来るのです。

マタイ福音書の山上の垂訓の真福八端は「心の貧しい人々は幸いである・・・悲しむ人々は幸いである・・・柔和な人々は幸い・・・義に飢え渇く人々・・・憐れみ深い人々・・・心の清い人々・・・平和を実現する人々・・・義のために迫害される人々・・・」と教えます。ここに出てくる「幸いな人々」はすべて神を慕い求める心を持った人々です。このような人々は神の霊に従って歩む人であり、聖霊の実りを豊に受けています。聖霊の実りとは、ガラテヤの信徒への手紙が教える「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5.22)などであります。  

それなのに、どうしてその人間の心に悪い思いが生じるのでしょうか。今日の福音でイエスは言います。「人間の心から、悪い思いが出て来て人を汚す。淫らな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など・・」。(ガーンと頭を殴られた思いです)

また前述のガラテヤの信徒への手紙でパウロは、「肉の業は明らかです。それは姦淫、わいせつ、好色、偶像崇拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他のこのたぐい・・・」(ガラテヤ5.19)といいます。

悲しいかな、人間にはパウロが「肉の業」と呼ぶ悪い思いがあります。わたしたちは自分の心の中にそのような思いが生じることを認めなければなりません。 

イエスは律法学者・ファリサイ人の偽善を痛烈に批判しました。(彼らは)「白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」(マタイ23.27)。まことに痛烈な言葉です。

なぜ神のかたどりである人間の心にこのような悪い思いが生じるのでしょうか。

悪い思いの中に、たとえば、「殺意」があります。聖書によれば、最初の殺人はカインが弟アベルを殺したことです。その動機はねたみでした。神はアベルのささげ物に目を留められたが、カインのささげ物には目を留められなかったのです・・・アベルがいなくなれば自分の価値が認められると思ったのでしょうか?カインは神の愛を疑いました・・・自分が愛されていること、自分にはかけがえのない価値があると信じられなくなったのです。他の人の良さを認めることとねたむこと、美しいものを見て造り主である神を賛美することと、その美しさを自分だけのものにしよう、専有しようとすること、この間は紙一重です。 

神はすべてのものをお造りになった。それぞれに価値を与え使命を授けられた・・・

人間の心に悪い思いが入ってきたのは、アダムとエバが創造主を疑い、神への信頼を失ったからではないでしょうか。神の愛を疑い、自分で神に替わって善悪の判断を行おうとする傲慢に陥ったからではないでしょうか。同じ不信仰、傲慢の汚れに汚染されているわたしたちです。しかし、わたしたちが不誠実でも、神は誠実であり、神の愛はわたしたちに留まっています。原罪の汚れを受けているわたしたち、愛に値しないと思ってしまいがちなわたしたちです。そのわたしたちにできることは、ただひたすら神の愛を信じる、「それでも信じる」ということではないかと思うのです。 

人間の思いはちょっとしたことで良くもなるし悪くもなります。同じ舌が父である主を賛美し、また神にかたどって造られた人間を呪う(ヤコブ3.9)。どうして神の作品を呪うことができるのか?わたしたちのなかに分裂と不調和があります。これが原罪です。人は乱れた思い、悪い思いから逃れられません。人の心には、良い思いもあれば悪い思いもある。問題はその思いといかに付き合うかです。正直に自分の思いを神のみ前にささげることです。悪い思いを抱いてしまうこのわたしを神は愛してくださることを信じることです・・・。 

着座6周年を迎えています。ちょうど6年前、わたしは理想を掲げました。「わたしたちの教会がすべての人に開かれた共同体、とくに弱い立場におかれている人々、圧迫されている貧しい人々にとって、安らぎ、慰め、励まし、力、希望、救いとなる共同体として成長するよう、力を尽くします。」

2004年、カテドラル献堂40周年にあたり、構内再構築の必要を痛感しました。癒し、安らぎが必要であるとしみじみ思いました。

2006年の今、自分自身の中に癒しと平安がなければどうして人に癒しと平安を伝えることができるかと痛感しています。 

偽善者であってはならない。それでは自分は本当に真実を生きているだろうか?それでもわたしは神の愛を信じます。ありのままのわたしを受け入れる神の愛を信じます。アベルは信じられなかった、アダムとエバも神の愛を疑った。わたしたちは信じ、信頼し、希望しましょう。 

主イエス、信仰の弱いわたくしを助けてください、アーメン。