教区の歴史

教区の歴史

助祭叙階式説教

2005年03月13日

2005年3月13日、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

 

渡辺泰男さん、赤岩聡さん、大水恵一さんの3人の神学生が助祭に叙階されるに際してひとこと申し上げます。多くの人の祈りに支えられ、多くの人の助けをいただいて今、3人は助祭に叙階されようとしております。助祭はカトリック教会の公的奉仕者、共同体への奉仕者です。助祭は新約聖書では「執事」「奉仕者」と呼ばれ、殉教者ステファノなどの7人が最初の助祭に選ばれました。彼らの任務は愛の奉仕であり、とくに貧しい人々のことを配慮することでした。 

ところが、教会の歴史の中で助祭職は次第の廃れていき、司祭職の直前の段階としての「過渡的助祭職」(変な言い方ですが)としてだけ存続してきました。第二バチカン公会議後、カトリック教会は初代教会の助祭のあり方に従い、「終身助祭」の制度を再興し、妻帯者が生涯助祭として奉仕する道を開きました。終身助祭の任務は典礼における奉仕だけではなく、教会共同体の必要に応え、司教を助けて、福祉、教育、財務、建築などの分野において公的役務者として奉仕の務めを行うということであります。東京教区においても終身助祭の任務がより具体的に明確にされ、認識される必要があると考えております。 

ところで、叙階される3人は一年後には司祭に叙階されることが期待されています。あなたがたは終身助祭ではなく、いわば「過渡的助祭」に叙階されるのです。ですから、あなたがた3人が司祭に叙階される候補者であるという前提でわたくしは話します。

「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(Ⅰテモテ2:4)。

すべての人の救いのために神はイエス・キリストを遣わされました。教会の使命は福音宣教であり、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えることです。司祭は福音宣教者となり、教会の役務者となります。司祭は何よりも司教と共に、司教の下で、福音を宣べ伝え証しする人です。 

「神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」(同2:5)。

司祭はイエス・キリストを宣べ伝え証しする人です。聖パウロはわざわざ「人であるキリスト・イエス」と言っています。イエス・キリストが本当に神であり、人であったということが初代教会の信仰告白です。常識では神であれば人ではないし、人であれば神ではないのですが、ニケア・コンスタンチノープル信条で言うように、イエス・キリストは「まことの神よりのまことの神」でありながら「おとめマリアよりからだをうけ」「ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ」人であります。 

イエスはその生涯、とくに十字架と復活を通して父である神、その愛、そして罪と死への勝利を啓示されました。福音宣教者はこのイエスの生涯を説くだけでなく、自分でもイエスの生き方を身をもって実行する者でなければなりません。「わたしについてきたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)とイエスは言われます。イエスに倣って歩む司祭の道は十字架を担う道であります。今日そのことをしっかりと肝に銘じてください。「土の器」とパウロが呼ぶ弱い人間が教会の役務を受けるのですから、役務の遂行には当然、苦しみ、悩みが伴うのです。 

司祭は人々に仕える人であり、助祭の務めはとくに「奉仕」ということです。それは何度も聞いておられることですが、人に仕えるということはその人のために働くということであり、その人のために働くとは、その人において神のみ心が行われるよう助け導くということです。ですから、ときには本人の望みとは異なる、本人の耳に痛いことを伝えなければならないこともあります。聖霊の働きを識別することが必要です。人に仕えるとは唯々諾々と人に従うことではなく、世の風潮に流されることでもないのです。自分の弱さを認めながら、祈りのうちに罪と悪と闘い、一人ひとりの真の幸せを求めて共に歩むということだとわたくしは信じています。 

渡辺さん、赤岩さん、大水さん、今あなたがたが引き受けようとしている任務は決して容易なものではありません。ですから、心からあなたがたのために、聖霊の賜物である知恵と勇気の恵みを祈らずにはおられません。どうか謙遜でありなさい、誠実でありなさい。そしていつも祈り、主への信頼と希望を新たにしてください。わたくしをはじめ多くの人たちがあなたがたを見守り、あなたがたのために祈り、あなたがたのためにできることは何でもする用意があります。どうか神があなたがたの決意を守り、導き、完成へと至らせてくださいますように!アーメン。