教区の歴史

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御受難会司祭叙階式説教

2005年03月06日

2005年3月6日午後2時、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

 

朗読箇所
ヨハネの福音 15:9-17
フィリピの教会への手紙 2:1-17

 

本日、御受難会の3人の司祭の叙階式を行うに際し、ひとこと申し上げます。

まず申し上げたいのは教会の使命と司祭の任務ということです。教会の使命は福音宣教ということです。福音宣教とは「よい便り」、「福音」を人々に告げ知らせることです。福音とは神が存在すること、その神は愛であり、すべての人の救いと幸福を望んでおられ、そのための恵みを決して惜しまれないこと、そしてすべての人の救いのために御ひとり子イエス・キリストを救い主としてこの世に遣わされた・・・、などのよい便りのことです。わたしたちが福音宣教できるためには、まずわたしたち自身が神の愛を深く信じているのでなければなりません。神がこのわたしを愛していてくださり、わたしの幸福を願い、幸福になるよう導き助けてくださり、そのためには神は愛する御子すら惜しまれなかった、ということを信じていなければならないのです。神の愛を信じてはじめてわたしたちは神の愛に応える者となり、愛を実行するものとなります。 

それでは、神の愛を実行するとはどういうことでしょうか。神の愛とは何か、どう実行するのかをわたしたちに余すことなく十全に示してくださったのはイエス・キリストです。イエス・キリストの生涯は神の愛そのものの完全な表れでありました。主イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という遺言を残され、自ら手ぬぐいをとって弟子たちの足を洗い、模範を示されました。本日の朗読で聖パウロは「互いに相手を自分よりも優れたものと考えなさい」(フィリッピへの手紙2・3)と言っています。 

今日叙階される3人はそれぞれ異なる恵みを受けました。お互いに異なるところがあるということはよいことです。同じならどのように補い合うことができるのでしょうか。どうかどうかお互いに相手を自分より優れたものと考え、力を合わせてください。あなたがたの結束と協力に御受難会の明日、日本の教会の明日が、世界の教会の明日が?かかっています。 

イエスは神の愛を生きるとは神のみ心を行うということであり、神のお望みを実行し、今の世界に神の支配を来たらせることである、と教えています。それはこの世界・社会が父である神のみ心に適った世界となるよう努めるということに他なりません。これを「社会の福音化」と呼ぶことができます。

このように教会の使命は福音宣教あるいは福音化ですが、この教会において司祭の役割と任務はどのようなものでしょうか。司祭は神の民から選ばれた公的な奉仕者であり、神の民に仕えると共に、神の民と共に福音宣教に生涯を捧げる者であります。奉仕ということは何度も聞きますが、今日はこのことについてひとこと述べたいと思います。 

奉仕は同時に「治める」ということでもあります。「治める」(統治)といえばあまり聞こえはよくありません。むしろ「導く」「助ける」というほうがよいかもしれません。わたしたちキリスト者が「治める」というときは、単に「支配する」ということではないのです。それは「人々が共にイエス・キリストに倣って神の愛を実行するよう助け導くために奉仕する」ということです。ですから、「治める」は「仕える」ことだと言ってもよいと思うのです。誰も「仕える」ということは人の言いなりになることだとは思いません。また同時に「治める」とは人を自分の思いどおりに動かすことだとも思わないはずです。「仕える」とは神のみ旨を行うこと、神の愛を実行することです。 

そこで司祭は優れて、神がおられること、神は限りなくよい方、優しい方であることを指し示し、証しする人でなければなりません。司祭の存在と働きのなかに、神のよさ,優しさ、そして人々を神の至福へ招いておられる神の不屈の意志が滲み出てくるような、そのような存在でありたいものです。3人がそのような司祭として生涯を捧げてくださるよう切に願っています。 

次に今日、御受難会の会員として司祭に叙階される3人に特に申し上げたいことがあります。3人は御受難会の司祭となるのですから、「祈りと黙想の人」であって欲しいとわたくしは強く願っています。祈りは最も優れた信仰の証しです。祈りを通して今の世界の人々に神の存在と神の愛を示して欲しいと思うのです。イエス・キリストの受難を黙想すること、その実りを人々へ伝えること、そして人々に主の十字架の神秘を黙想するよう招き導くことが御受難会の大切な使命であるとわたしは理解しています。祈ること、そしてイエスの苦しみを人々に告げることを通して、現代の人々に人生の意味を深く悟らせてください。苦しみと悲しみの絶えないこの世界です。どうか人々に、苦しみ、悲しみに耐えることを、また、そのことを通してキリストの復活の喜びに達する道を指し示してください。どうか世界中の人に苦しみ、悲しみを分かち合う素晴らしさを教え示してください。そしてイエスの十字架が神の愛の証しであり、わたしたちもその信仰を通して永遠のいのち、復活のいのちへと導かれるということを人々へ告げ知らせ証ししてください。叙階される3人がそのように歩まれるよう望み、そのように生きるよう励ましたいと思います。

 

今日ご参集の皆様にもここで改めてお願いします。司祭の生涯には多くの困難と試練が伴います。今日の3人の叙階のために多くの人が祈ってくださったことでしょう。わたしがお願いしたいのは、どうか皆様、これからも祈ってください、ということです。また、今日叙階される3人のためばかりでなくすべての司教・司祭のために祈ってください。さらに、司祭を神に捧げたご家族のためにも祈ってください。家族の中から司祭が生まれるということは実に大変なことです。教会共同体は司祭の家族のことも忘れずに、祈り支えなければならないと思います。

 

それではご一緒に祈りましょう。

全能の神よ、あなたからお召しを受けた司祭たちを守り導き,召命を全うさせてください。また、司祭の家族、司祭を助ける人々に慰め、希望、励ましをお与えください。この願いをあなたの御子、新約の大祭司であるイエス・キリストによってお捧げします。

アーメン。