ヤコブ幸田和生補佐司教叙階式説教

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    2005年2月19日、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

     

     

    幸田和生神父の司教叙階式にご参集の皆さん、本日はこの機会にあらためてわたしたち教会の使命と司教・司祭の任務についてご一緒に考えてみたいとい思います。 

    皆さん、わたしはまず聖パウロの次のことばを思い起こします。

    「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(テモテへの手紙一、2・4)。

    教会の使命は種々のことばで表現できますが、わたくしはこのパウロのことばを念頭においてご一緒に考えてみたいのです。 

    皆さん、わたしたちの使命は、この日本という場において、とくに東京と首都圏という場において、多くの人々に対して、神がおられること、そしてその神は慈悲深い神、全能の神であり、すべての人の救いを望んでおられることを表し伝えることでありその証しすることである、と思います。この教会の働きは、「福音宣教」「福音化」と呼ぶことができるでしょう。

    現在の日本の社会においてどのくらい多くの人が神の存在を信じているでしょうか。さらにキリスト教の神を信じている人はどのくらいいるでしょうか。キリスト教のすべての教派をあわせてのその数は人口の1パーセントといわれています。この数少ない信者であるわたしたちは神の存在を信じています。このわたしたちこそその信仰を伝えていかなければならないのです。しかしわたしたちは自分の信仰をどのように表現し伝達し証言しているでしょうか。

    わたしたちの信じる神はイエス・キリストの神です。イエスが父としてわたしたちに示された神です。イエスはその生涯のすべてをかけて父である神を証しされました。そして十字架にかかられる前の晩、最後の晩餐のときに弟子たちに新しい掟を残されました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなた方がわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネによる福音13・34-35)。また、イエスは弟子たちの足を洗って、互いに仕え合うよう、模範を示されました。 もしわたしたちがこのイエスの遺言を忠実に実行しているならば、この日本でも、もっと多くの人が神の存在を認め、さらにその神は愛であることを信じてくれたことでしょう。神は目に見えません。しかし愛の行いは人の目に触れるのです。まさに、わたしたちの間にどのくらい愛があるのか、わたしたちがどのように神の愛を実行しているのか、が日本における福音化の試金石であります。本日の朗読である聖パウロの次のことばを特に強く心に刻みたいと思います。「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(ローマの信徒への手紙、12・9)。 

    さて、神の愛を証しすることを使命とする教会のなかで助祭、司祭、司教はそれぞれ叙階の秘跡によって公の奉仕者、公的な奉仕者という任務を授けられ、教会を代表するものとなり、またイエス・キリストに倣って神と人に仕える者とされています。特に司教は使徒の後継者として任命され、その務めを果たすために必要な恵み、賜物あるいは権能を授けられます。司教に与えられる権能は優れたものですが同時に重い責任を伴うものです。司教はその重要な責任を果たすために必要な恵み、権能を受けるのです。彼が司教となったのは決して自分個人の名誉や利益のためではなく、もちろん自分の欲望を満足させるためではありません。みずから手ぬぐいを取って弟子たちの足を洗われた主イエスの模範に倣って神と人に仕えるためです。 

    ところで司祭はその司教の協力者です。司教は自分の任務を司祭とともに、司祭を通して行います。司教は司祭なしに何もできないと言っても過言ではありません。また司祭は司教の協力者であり、司教によらずには司祭としての任務を果たすことができません。このように司教と司祭の間にはきっても切れない関係があります。

    そこで、司祭は司教を助け、司教の務めである、神の愛を証しすると言う任務を優先的に実行しなければならないのです。司祭は司教とともに奉仕するものであり、仕えられるためでなく仕えるために来た主キリストの生き方を、生涯にわたり身をもって実行し証しする者です。実際、主イエスは貧しい人ともに生き、己を空しくして、貧しい人のためにいのちをささげられたのでした。皆さん、思い起こしてください。イエスの周りに集まった人々は、貧しい人々、弱い立場の人々でした。この人たちは病気に苦しむもの、心身のさまたげに悩むもの、寄る辺のない人々、人々から踏みつけにされ後回しにされ虐げられた人々、孤独と失意に苦しむ人々です。現代でも苦しみ悩む人は減少するどころか増加する一方です。今の世界で無数の人々が助けを求め、安らぎ、いたわり、救いを求めています。この人々へ神の愛、神の優しさを伝えるのが教会の使命であり、司教とその協力者である司祭はそのために奉仕するという大切な任務を受けています。

    東京教区はこの教会の使命に忠実でありたいと願っています。それは2000年9月3日、わたくしが着座式で申し上げた通りです。

    皆さん、特に司祭、そして奉仕の任務を受けたすべての皆さん、人の心は微妙で傷つきやすいものです。忍耐と謙遜をつくし、柔和な態度で賢明をもって互いに仕え合いましょう。預言者イザヤの言葉を借りて主イエスも言われました。

    「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」(マタイ12・20)。

    司教・司祭は神の愛の証人です。自己満足のための権威・権限の行使、言動は厳に慎まなければなりません。とはいえ司教・司祭も弱い人間です。わたしたち司教・司祭はいつも初心に立ち返り、神の優しさの証人となることができるよう、恵みと助けを自分自身祈らなければなりませんし、そのように祈るよう皆さんにお願いしなければならないのです。 

    それでは司教叙階式の説教の結びとして祈ります。

    「いつくしみ深い全能の神よ、東京教区の信徒、奉献生活者、司祭、司教、がそれぞれ復活されたイエスの現存のしるしとして歩むことができるよう導いてください。わたしたちが互いに謙遜にそして誠意をつくして仕え合うことができますように。わたしたちが日々の行いと生活を通して神の国の到来の力強いしるしとなることができますように。

    どうか主よ、わたしたちがその立場や任務、仕事、あるいは文化、言語、国籍、民族の違いを越えて互いに尊重し合い、力を合わせて、神の愛をあかしすることができますよう、わたしたちに聖霊を豊かに注いでください。主キリストによって。」