4周年記念ミサ説教--新しい天と新しい地へ向かって

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    4周年記念ミサ説教 

     

    「新しい天と新しい地へ向かって」 

     

    2004年9月5日(年間第23主日)、午前10時
    東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

     

     

    最近しきりに心に浮かんでくる言葉があります。それは「新しい天と新しい地」(黙示録21:1)ということばです。黙示録は神の国が完成した様子を「新しい天と新しい地」ということばで表現しています。これは既に旧約のイザヤ預言者が述べていることです。

    「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はいない」(イザヤ65:17)。

    神は世の終わり、終末においてこの世界を完全に刷新されます。すべての悪は滅ぼされ神の支配が完成します。それはキリストの再臨のときであり、キリストの復活の栄光が人類と宇宙に行き渡るときであり、神の創造のみ業が完成するときです。

    わたくしは、神の創造ということにもっと注意を向けていただきたいと皆さんにお願いします。神の創造は創世記の物語で終了したのではありません。神は絶えず人類と宇宙を創造しています。神はこの世界をいつも新しく生まれ変わらせ刷新しているのです。この創造の完成が「新しい天と新しい地」なのです。

    神が造られたこの世界に何故悪が存在するのか、という問いは多くの人を悩ませました。悪といえばまずわたしたち人間の「罪」のことですが、正確に言えば、罪とはいえない悪も存在します。災害、事故、病気などは罪とはいえないが良くはないこと、つまり悪であります。

    この世界は神の創造の歴史です。神は時間を超えた方ですが人間は時間の中でしか生きられません。時間は神の造られた創造の舞台です。神の創造が行われている状態(完成途上の状態)である限り、足りない点、まだあるべき状態になっていない、ということが存在します。神の創造の最終的な到達点は、人と宇宙を救うこと、あがなうこと、それは人間について言えば「人をゆるし、癒し、清め、高め、聖とし、復活の栄光に与らせ、三位一体の神との一致へと導くこと」に他なりません。

    福音書が描くイエスの働きのなかでもっとも多いのは「人の罪をゆるし、人の病・患いをいやすこと」ではないでしょうか。実に「ゆるし」と「いやし」はイエスの神の国の宣言の中心的な働きでありました。

    悪とは要するに不条理、納得できないこと、受け入れがたいこと、あってはならないことです。それは不条理なのですからどんな説明をしても無理やこじつけになってしまいます。

    ヨハネ福音書9章に、生まれつきの盲人をイエスが癒された有名な話があります。生まれつき目の見えない人がいました。生まれつき目が見えないということは本当に理不尽なことです。誰が「これはお恵みなのだ、我慢しろ、感謝しろ」と言えるでしょうか。「彼が生まれつきの盲人であるのは、本人か先祖が罪を犯したからその祟りなのだ」と言う説明もあります。イエスの答えは違いました。イエスの答えは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9:3)、というものでした。このイエスのことばをわたしたちはどう受け取ったらいいのでしょうか。

    「神の業が現れる」とは神の創造の働きのことではないでしょうか。

    病気や障害の原因については、いくら病理的に説明できたとしても、何故その人がその苦難にあわなければならないのか、という問題が残ります。

    障害だけでなく、この世にはあってはならない理不尽な不条理なことがあります、ありすぎるといっていいでしょう。神が造ったこの世界に何故このようなことがあるのか、という問いはいつでもまことに真摯なものです。

    この世の不条理で苦しむのは、特に貧しい人々、弱い立場の人々です。今の世界でも国際紛争や経済のグローバリゼーションの犠牲者は弱い子ども、女性、開発途上国の人々です。イエスは、ご自分を貧しい人々、苦しむ人々のもとへ遣わされた者だ、と宣言されました(ルカ4:16-19)。

    このイエス・キリストから遣わされているのがわたしたち教会なのです。教会の生き方はイエスの生き方を基準にしなければなりません。

    わたしはこの思いを込めて、2000年9月3日、4年前に東京大司教に就任したときに申しました。

    「わたしたちの教会がすべての人に開かれた共同体、とくに弱い立場におかれている人々、圧迫されている貧しい人々にとって、やすらぎ、なぐさめ、はげまし、力、希望、救いとなる共同体として成長するよう、力を尽くします」

    教会は神の創造の働きに協力するよう召されています。それはイエスが言った、生まれつき目の見えない人を通して神の栄光が現れることに協力する、ということではないでしょうか。つまり、理不尽な現実を通して、神の栄光が現れるよう力を尽くすということであると思います。

    理不尽さを通して神の栄光を現す、とはどういうことでしょうか。

    イエスは理不尽さから目を離さずそれを背負い、背負うことを通して神の国の到来を指し示しました。不条理を不条理と指摘します。それゆえ多くの人を敵に回しました。その結果が十字架であったともいえます。理不尽なことを理不尽と言いながらその解決のために何もしないなら単なる評論家でしょう。理不尽なことをしている人を排除し、撲滅してしまうというやり方もあるでしょう。それでは問題は解決しません。それはイエスの道ではありませんでした。イエスは敵への愛を説き、それを実行したのです。

    このイエスを師とし、主と仰ぐわたしたちですから、主の道に従わなければなりません。イエスは「自分の十字架を背負ってついてくる者でなければ、誰であれ、わたしの弟子ではありえない」(ルカ14:27)と言われます。とはいえその十字架は復活のイエスと共に担う十字架です。十字架を担うということはイエスと共に戦うということです。神は世界の刷新のためにわたしたちからそれぞれ心のこもったささげもの、犠牲を求めておられます。

    神のみ業が東京教区のわたしたちを通してこの世界に現れますように!

    この祈りを込めて、東京教区の皆様にお願いします。

    一人一人それぞれに、神のみ業がこのときこの場所に現れるよう、心を込めてご自分のささげものを天の父におささげください。

     


     

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