平和旬間「平和を祈るミサ」

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    2004年「平和旬間」

     

    「平和を祈るミサ」 説教 

     

    2004年8月14日、午後6時、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

     

     

    聖書朗読箇所
    使徒パウロのエフェソの信徒への手紙2:14~22
    ルカによる福音4:16~21

                      

    2004年の「平和旬間」のあり方を関係者で相談し、今年は本日8月14日の夕刻、ここ東京カテドラルで「平和を祈るミサ」を捧げることにいたしました。この間の経緯と理由について先日、わたくしの名前の文書を皆様にお送りしましたのでご覧ください。今日はこのように多くの方々がこのミサに参加してくださり、有難うございます。 

    主イエスは山上の垂訓で「平和を実現する人々は幸いである」と言われました。平和のために祈り働くことはすべてのキリスト者、いやすべての人の最も重要な務めであります。実際、多くの人が平和のために働いております。そのなかでわたくしはわたしたちの教会の最高指導者ヨハネ・パウロ2世の働きを思います。教皇様こそ、現代世界の平和実現のためにもっとも力を尽くしておられるかたです。わたしたちはカトリック信者として教皇様の働きに倣い、またその教えを学びながら、「平和を実現する人」となるよう祈り努めたいと思います。 

    主イエス・キリストは故郷のナザレにおいて宣教の第一声を発し、預言者イザヤのことばを引用して「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれ人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」と言われました。教会の働きはキリストの働きでなければなりません。キリストによって立てられた教会はキリストに倣い、このキリストの言葉を実現するために力を尽くしそのために力を合わせなければなりません。そしてそうすることがキリスト者として「平和の実現」のために働くことになると信じます。 

    ところで、今の世界で平和のために働くとはどういうことでしょうか。色々な可能性があります。これだけしかないとか、これだけということは言えないでしょう。人はそれぞれ、今の世界にはどんな問題があるか、その問題の解決のために何をしなければならないのか、学び、そして与えられた場所、立場において何か平和のためになることを実行しなければなりません。今日、ケルンホールで「HIBAKUSHA」という映画の上映会とこの映画の監督、鎌仲ひとみさんのお話がありました。わたくしも出席し、今まで知らなかった多くのことを学びました。これは大変なことだと思います。この世界には実に多くの困難な問題があります。 

    実は先日、驚くべき報告を読みました。それは現代世界で行なわれているセックス・ツアーと女性・子どもの人身売買のことです。教皇庁・移住移動者司牧評議会議長の濱尾文郎枢機卿様から中央協議会へ届いたものです。この報告によりますと、毎年約100万人の子どもが売春を強要されているとのことです。また世界中でいわゆる売春ツアーが企画され実施されています。行き先は貧しいアジアの国々で、対象は女性と子どもです。また貧しい国から女性と子どもが海外に売られているという事実も明らかになっています。経済的に貧しいアジアの国で売春ツアーが行なわれています。例えば毎年ネパールとバングラデシュでは5000人から7000人の女性・少女がインドへ売られているとのことです。このようなことは決してあってはならないことです。しかし、そういう事実があることを否定できません。このような現象はいわゆる南北問題といわれる問題の一つだと思います。南の国は経済的に非常に貧しい。人身売買が行なわれるのも貧困のためです。他方、北の国は富んでいるが精神的に病んでいます。消費主義に毒され、人間性を蝕まれているという状態です。 

    これは神の国とは程遠い状態です。売春を強要されあるいは人身売買されている女性と子どもがそのような害悪から解放されなければなりません。また、その人々が人として大切にされ人間らしく生きられるよう生活が保障されなければなりません。他方、人身売買にかかわっている人、売春を強要し黙認している人がその罪と悪を認め、回心と償いを行ない、そのような事態を根絶するために力を尽くさなければなりません。このように考えてみれば、この事実にわたしたちは無関心ではいられません。直接の加害者ではないかもしれませんが間接的に加害者になっているかもしれません。またこの事実を知って何もしなければ「平和の実現のために働く」キリスト者の務めを怠ることになるからです。 

    どうしてこのような害悪がこの世界にはびこってしまったのでしょうか。この世界は人間が造り出したものです。この世界は人間の罪が堆積した結果である構造悪が支配する世界です。この世界は人間が造ったのですから何とかするのが人間の責任です。わたしたちがこれを造り替えなければならないのです。でも、それは人間に可能なことでしょうか。

    歴史上、世界の構造悪を改造する思想と計画は何度か提唱されたと思います。しかし、成功しませんでした。人間の罪の現実はあまりにも根強く頑強なものなのです。これはまさに罪と悪の問題です。罪と悪は神の支配に逆らっている状態です。ですから神の支配が行き渡らなければ世界の刷新と平和、「新しい天と地」は実現しないのです。ということは神の恵みによってそのような世界の実現が可能であるということです。 

    今年の10月9日から11日まで東京で第30回「正義と平和」全国集会・東京大会が開催されます。そのテーマは「もう一つの世界は可能だ」です。今の世界は女性や子どもが人身売買されるような世界、飢えて死ぬ人が数知れないのに天文学的な戦争の予算が計上されている世界、そのような世界がどうしようもないもの、変えようもないものだろうか。なるようにしかならないのだろうか。それとも別な世界が可能なのだろうか。それはどんな世界だろうか。それはそのようなことが根絶された世界、誰もが人間として、かけがえのない存在として尊重され大切にされる世界です。そのような世界は可能なのだろうか。その答えは「はい、そのような世界は可能です」ということだと思います。 

    先ほどの鎌仲監督の話にあったのですが、それではこのような世界の現状に対してわたしたちは何ができるのか、と問われて彼女は答えています。それは「共感」ということだと思う、と。つまり苦しんでいる人、悲しんでいる人の苦しみ悲しみに共感するということです。イラクで多くの子どもたちが苦しんでいます。この子どもたちの苦しみ、家族の怒りに関心を持ち共感するということです。これならわたしたちにもできます。実は1995年、敗戦50周年を迎えて日本の司教団は「平和への決意」というメッセージを出しました。この中で、平和のためにこれから何をしなければならないか述べています。その中に、アジアの人々との交流、ということを言っています。人間としてお互いに顔と顔を合わせて出会う、という体験が大切です。お互いに同じ人間であるという体験を持ち、お互いに相手の苦しみ悲しみを知ること、自分のこととして受け止めるということです。 

    今日の朗読はパウロのエフェソの教会への手紙です。この中でキリストの十字架のことが言われています。十字架によって敵意を滅ぼされました、と。わたしたちもキリスト者として、自分の十字架を担っていかなければなりません。人の苦しみ悲しみを分かち合うことが十字架を担うことに通じるのではないか、と思います。相手の苦しみを分かち合うということは福音的な生き方であると思います。 

    わたしたちは既にある程度「もう一つの世界」を知っています。少なくとも垣間見ている、と言うことができます。それはすでに一部、実現されている世界です。イエス・キリストの到来によって始められた神の国です。イエスの十字架は罪と悪への勝利でした。十字架の勝利は復活の世界を開きました。「もう一つの世界」とは復活の世界、栄光の世界の輝きです。教会の使命、それは神の国の到来のしるしとなること、キリストの復活の証人となる、ということです。これが教会の使命です。十字架なくして復活はありません。わたしたち教会はそれぞれ自分の十字架を背負わなければならないのです。悪との戦いは十字架を担うことにほかなりません。 

    十字架によって平和をもたらされて主イエスに従うという決意を新にいたしましょう。そして今日はとくに、この教会の使命をよりよく果たすことができるよう智恵と力、勇気を与えたまえ、と被昇天の聖母の取次ぎによって真剣に祈りましょう。 

     

    東京大司教 ペトロ 岡田武夫

     

    (お断り:当日の説教のテープおこしではありません。岡田本人が説教直後に、メモと記憶によって構成したものです。したがって文責は岡田大司教です)