聖香油のミサ

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    2004年4月8日、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

     

    「初心忘るべからず」。

    2001年3月4日、わたくしはこの大聖堂で、東京大司教として初めて司祭を叙階しました。そのときわたくしは訓話のなかで「初心忘るべからず」という話をしました。これは能の大成者,世阿彌の言葉です。司祭に叙階されたときの気持ちを生涯もち続けて欲しいという願いを込めてこの言葉を引用しました。今日は、わたしたち司祭が司祭に叙階されたことを記念し、そのとき約束したことを更新する日です。あのときの決心、気持ちを思い起こしましょう。あのときの謙虚な気持ち、誠実で純粋な心を思い起こし新たにしたいと思います。わたしたちは司教と会衆の前で司祭の務めを忠実に果たす決意を表明いたしました。司教は受階者の決意表明を受けて次のような励ましの祈りを送ります。「あなたがたのうちに、よいわざを始めてくださった神ご自身が、それを完成してくださいますように」。今、心からこの祈りをもう一度ささげたいと思います。

     

    【祈りと犠牲に支えられて】

    わたしたちが司祭に叙階されたのは多くの人の祈りと犠牲の賜物でした。また叙階してからの司祭の歩みも実に多くの人に支えられ導かれています。わたしたち司祭はこのことを片時も忘れてはなりません。わたしたちは人の世話をし、人を助け導くことを任務としていますが、実は多くの人のお陰を蒙っているのです。今 日はそのなかでとくに司祭の家族のことを思い起こしたいと考えます。司祭の父、母、兄弟姉妹は格別な思 いで司祭のために祈っています。家族は司祭が健やかに聖務を果たすよう願い、そのためにどんな協力も惜しみません。日本では司祭の家族は必ずしも信者であるとは限りません。しかし、司祭である肉親のために人には言えない犠牲をささげている点は、信者でない家族にとっても、まったく同じであると思います。わたくしは信者でない家族もその司祭を通して尊い犠牲を天の父にささげてくださっていると信じます。今日は改めて司祭を支えるすべての人々に感謝の念を新にいたしましょう。

     

    【司教の喜び】

    わたくしは司教として何度か司祭叙階式を執行しました。いつも叙階式の核心部分である「叙階の祈り」を唱えるとき格別の思いがいたします。その祈りとは次のことばです。「主なる神よ、使徒から受け継いだ務めを果たすには力の足りないわたしを顧み、かつてモーセとアロンになさったように、今わたしたちにもこの人たちを必要な助け手としてお与えください」。この祈りを唱えるときほど強く司教と司祭の絆を感じるときはありません。この祈りはおそらくすべての司教の心からの真摯な願いであります。司祭の喜びは司教の喜びです。司祭を通して神の慈しみが現れ、多くの人に伝えられるとき司教は大きな喜びを感じます。他方、司祭の苦しみ、悲しみは司教のものです。司祭と信徒の関係が円滑に進まないと知るとき、司教も共に悩み苦しみます。わたしたちは司祭職という尊い使命を弱い「土の器」に受けています。人間の弱さと限界をしみじみ感じることがしばしばです。しかし、同時にそれはこのわたしを呼んでくださった父なる神への信頼を新たにするときでもあるのです。復活されたキリストが共にいてくださるという信仰を新たにし、勇気と希望をもって歩んでまいりましょう。

     

    【受難】

    今日は聖木曜日、明日は聖金曜日、主の受難を記念する日です。いま世界中で「パッション」という映画が評判になっています。メル・ギブソンという監督はこの映画によって、できるだけ福音書に忠実に、イエスの最後の12時間を再現しようと試みました。実にリアリズムを徹底させた映画です。この映画で強調されているのはナザレのイエスの想像を絶する苦しみ、そして人々の残酷さと悪意です。イエスは最後の息を引き取るまで父への従順と敵への愛を貫き通しました。このイエスの弟子であるわたしたちはどのように自分の十字架を背負っているでしょうか。どのように主イエスに従っているでしょうか。主キリストの祭司職を受けたわたしたちが、日々、死からいのちへ、十字架を通して復活への神秘を力強く証しできますよう、共に心を合わせて、聖霊の照らしと導き、励ましを祈り求めたいと思います。