教区の歴史

教区の歴史

聖香油のミサ

2003年04月17日

2003年4月17日、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

 

毎年聖木曜日に教皇様は全世界の信者に向かってメッセージを発表されます。ことしは「聖体の教会」ECCLESIA DE EUCHARISTIA という回勅を送ってくださいました。大変豊かな内容であり、とてもいまその全部を紹介できません。ただこの機会をお借りして、わたしがこの教えを呼んで特に心に強く感じた二つの点をお伝えしたいと思います。皆様におかれましてもぜひこの大切な教えをよくお読みになり司祭職の糧、使徒職の糧としていただきたいと存じます。

 

1.信者のこの世における責任

ミサの奉献文の中で司祭が「信仰の神秘」と唱えると会衆は「主の死を思い復活をたたえよう、主が来られるまで」と応えます。また交わりの儀(聖体拝領)のなかで主の祈りを唱えた後司祭は「わたしたちの希望救い主イエス・キリストがこられるのを待ち望んでいます」と唱えます。

聖体祭儀は主の再臨への信仰と希望を証言しています。わたしたちは神の国の完成である新しい天と地の到来へ向かって、日々緊張のうちにも信頼と希望をもって歩みを進めているのです。

ところでこの「新しい天と地」の出現への期待は決してこの世界への責任を免除したり軽減したりするものではありません。新しい千年期を迎えたわたしたちは更なる決意をもって地上の市民としての務めに励まなければなりません。

その務めとは福音の光の下でより人間らしい世界、神のみ旨に適った世界の建設のために力を尽くす、ということです。どの時代もそうですが今の世界にも悲しく暗い現実が存在します。Globalizationの急速に進行するいまの世界においてもっとも弱いもの、もっとも力のないもの、もっとも貧しいものが虐げられ苦しめられています。このような状況に置かれている時こそ、わたしたちキリスト者の希望はより明るく輝き出なければならないのです。そのために主キリストはご聖体として世の終わりまでこの世にとどまることを望まれました。また最後の晩餐の時には自ら弟子たちの足を洗われ、貧しい人々に仕える教会の姿を示されたのでした。

 

2. In persona Christi

教皇はたびたび 「In persona Christi」 ということばを引用します。教皇は、これは単に「キリストの名において」とか「キリストの代わりに」ということ以上の神秘的現実を意味しています。それは、司祭は聖体祭儀を執行するとき、とくにパンとぶどう酒を聖体に聖別するとき、特別に秘跡的にキリストとおなじ主体になる、ということを意味します。キリストでなければささげることの出来ないいけにえ・奉献をキリストとしてささげる、ということです。この務めをイエスは使徒たちに託しました。そして使徒たちはこの任務を後継者である司教たちに伝えました。司教はさらにこの努めを自分の協力者である司祭たちにあずからせています。

ところでこの聖なる任務は叙階の秘跡を通して伝えられます。この叙階式を執行するのは司教であり、叙階は司教のみに与えられた司教固有の任務です。司教は司祭の叙階という秘跡を通して、自分の任務に司祭をあずからせ、司祭を通して、司祭によって、司祭とともに、司教の任務を遂行するのです。

司祭叙階は司教のもっとも大切な務めです。司祭の働き、協力なしに司教の働きはありません。また司祭は司教とともに、司教のもとにいるのでなければ司祭としての働きをすることができません。司教と司祭の一致と協力は部分教会である教区の在り方のもっとも大切な課題です。『教会憲章』は教えます。「各司教は、おのおのの部分教会における一致の見える根拠であり基礎である」(23番)。本当にその通りですが、司教がその本来の役割をよく果たすことができるのは、司教の働きと司祭の働きとの間に調和と一致が存在するときです。

 

3月2日、この大聖堂においてわたくしは、特別な感慨をもって、二人の教区司祭を叙階しました。

教会にとって司教と司祭の一致と協力は本質課題です。司祭職制定を記念する聖香油のミサにおいてわたしたちはきょうはこの課題を確認し、互いに決意を新たにしたい、と切に望んでいます。