教区の歴史

教区の歴史

生涯養成講座 「小教区制度のおこり」

2001年06月02日

<これからの教会を考えよう>「小教区」制度のおこり

 

ペトロ岡田武夫 (東京大司教)

 

そこで、これから何回かにわたって、「小教区」をテーマにして書いてみたいと思います。

今回「小教区」をテーマにとりあげた理由は、「小教区をより開かれた宣教共同体とするため、小教区をあらゆる角度から総合的に分析したい」からでした。この「総合的」には、「教会史の観点から」ということが含まれています。

現代のカトリック教会の基本単位は小教区です。ところが先日のナイスでは「開かれた教会づくり」が総合テーマとされ、また「福音宣教する小教区」がサブ・テーマとされています。これは、わたしたちの教会、特に小教区が閉鎖的である、という反省にもとづいていると思われます。そこで、それではなぜわたしたちの教会は閉鎖的になってしまったのが、その原因を教会の歴史の中にさぐってみたいと思いました。そこで、この研修会では、教会史の専門家である石井健吾師に「小教区の成立と発展」という講義をお願いしたわけです。以下に記すものはその講義から筆者が学びとることのできたことからの要約です。(これは、あくまでも筆者の理解したものであり、文責は筆者にあります)。

 

「小教区」ということばの由来

「小教区」ということばはギリシャ語のパロイキアπαροικιαに由来する。これはもともと「市民権や国民としての権利なしに外国に滞在すること、あるいは滞在している人、即ち外国居留者」を意味していた。このことばがイスラエル人に伝わると、パロイコスπαροικοσとなった。これは「イスラエル人の団体に受け入れられる、イスラエル人にとって親密な外国人、イスラエル人シンパの外国人・・・・」という意味となった。さらに旧約聖書の七十人訳では「エジプトを脱出したイスラエル人の団体、エブプトに滞在していた奴隷集団であるイスラエル人、この世ではいつも異国に滞在する居留民であるイスラエル人」という意味でつかわれるようになった。このような「居留民」のとらえ方は新約聖書に受け継がれた。パロイキアということばは「まことの国とその市民権は天上にある」という考え方、そして「キリスト教共同体の現実の存在」自体を指すようになった。ぺトロもパウロも「キリスト者はこの世においては居留民である」とのべている。

 

初代教会におけるパロキア

紀元150年頃になるとパロキアparochiaは個々のキリスト者共同体、教会ecclesiaの中でのひとつひとつの集合体をさすことばとしてつかわれるようになった(エクレシアとは、ギリシャのポリスで、外敵の脅成にさらされたとき、臨時に一人のリーダーを選出し、その人を中心に戦いに備えている状態――緊急事態発生時のポリス、臨戦態勢のポリスをさしていた)。その最初の教会では監督とよばれる一人の指導者が全権を握っていた。監督を補佐する集団として長老団(司祭団)と執事団(助祭団)があった。 司祭たちの役割は専ら秘跡の執行である。助祭の仕事は今日でいう福祉の仕事や教会の管理、運営であった。

当時はまだ一人の主任司祭が一つの小教区を担当するということはなかった。キリスト教は未公認の宗教であり、礼拝専用の建物をもつことは許されなかった。信者はいわゆる「家の教会」Hause Kirche ――貴族や金持ちの住宅の広間でユウカリスチアの祭儀を行っていたのである。キリスト教はまず都市の宗教として成立したのである。迫害下にあって多くの人々が殉教したが、キリスト教は発展し、信者は郡部にもふえてきた。そこで、司教の監督下におかれた「ますらお派出夫」である司祭団が郡部へ派遣され、そこでミサを行った。次第に郡部にも礼拝所がつくられるようになる。司祭たちは共同生活をしていて、そこから郡部へ通っていたが、郡部の信者がふえるにつれて、通う距離が大きくなり、ついにどうしても宿泊せざるをえなくなる。このようにして 司祭の宿泊所ができ、それが今日の小教区の茅生えとなったのである。

 

現行小教区制度のおこり

313年、コンスタンティヌス帝の寛容令が発布され、帝国内のすべての宗教の礼拝がゆるされるようになる。キリスト教はますます発展し、ついに国教的地位を獲得する。ローマの司教の地位も著しく高くなり、教会制度はローマ帝国の行政制度にあわせてつくられていった。ここで司教区dioecesisが登場する。司教の管轄する一定の領域が司教区となり、その中にパロキアルとよばれる共同体が散在していた。司教は教区の管理、運営の最高責任者として、地区裁治権potestas ordinarius lociを有していた。これはローマ法に由来する。オルドとは秩序ということである。これはローマ人が最も重んじたことであった。

2世紀頃からゲルマン人の大移動がはじまり、帝国内にゲルマン人が侵人してきた結果、多くの教会は破壊されてしまった。まもなく教会は再建されたが、当時の司教は財力がなかったので、領主の財政的援助をあおがざるをえなかった。これが後に禍根を残すこととなる。というのは、このことが私的聖堂のおこりとなり、また教権と俗権の争闘の遠因となったからである。領主たちはその教会を自分の教会――私的聖堂とし、献金は自分の収入とし、さらに司祭の任命も行うようになった。 司祭は司教の補佐ではなく領主の家臣となり、孤立させられて司祭団の一員という意識を失い、完全に中世的封建制度に組みこまれてしまった。この自体を打開するため司教は自分の権威が直接及ぶ小教区を多く設立した。そして、領主の私的聖堂では洗礼を授けること、大祝日にミサをささげることを禁じ、さらに「信徒はかならず一定の小教区に所属しなければならない」と定めたのである。これは封建領主に対抗してなされた 防衛的な措置であった。

さらに紀元800年に成立したゲルマン帝国下において、小教区制度は確固たるものとなる。教会領地をめぐって教会と帝国の間に争闘が統き、結局教会財産は帝国に没収されてしまう。しかし教会はベネディクト会士の手を借りて、司牧cura animarumとしての教会組織を確立する。小教区の領域(テリトリー)がきめられ、所属信者は十分の一税を教会に収めることとなり、また秘跡は所属教会の司祭から受けることとなった。こうして現在の小教区制度がほぼ完成したのである。

都市部に小教区制度が確立されたのは郡部よりもおそく、13世紀のことである。都市の勃興と共に、信徒の中にはかなり教養のある人々もでてきた。彼らは聖書を読んで様々な新しい考え方を示したが、 あまり教養のない当時の司祭たちは彼らに応えることができなかった。そこでドミニコ会やフランシスコ会の司祭が援助を要請された。当然教区司祭の側からの反発があった。教皇はブッラ(教皇勅書)を発して彼らをなだめ納得させなければならなかった。この過程で、制度としての小教区が都市部でも根をおろすことになったのである。

 

以上が、「小教区の成立と発展」から学んだことの要点です。ここでふりかえってみて、小教区には二つの要素が不可欠なものとしてあることに気がつきます。それは、

・ 一定の区域

・ そこからの収入

です。教会と領主の争いも、実はその支配権をめぐる争いでありました。これからの教会のあり方を模索しているわたしたちにとって、この事実は決してゆるがせにできないことです。