教区の歴史

教区の歴史

東京大司教着座式 説教

2000年09月03日

2000年9月3日 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

イザヤ書40章31節で次のようにいわれています。

「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」(31節)。

わたくしの司教としてのモットー「主に望みをおく人」はここからとりました。本日の聖書朗読はこのことばが含まれている個所から選ばれています。

わたくしは、自分にもっとも必要なのは「希望」の徳であると思っています。新たな任務をいただいたいま、主への信頼を新たにしてくださるよう、切に祈り求めます。

 

さて今年は2000年、大聖年の年です。聖年を、この本日の福音に引用されているイザヤ書の「主の恵の年」と重ね合わせてみましょう。

わたしたちはこの年を真に「主の恵みの年」として過ごしたいと切に望んでいます。

イザヤが告げる「貧しい人」とは、現代の日本においては誰でしょうか。捕らわれている人、目のみえない人、圧迫されている人とは誰でしょうか。

 

わたしたち教会は、本来、自分自身貧しい人々であり、貧しい人々とともに歩む、キリストの弟子たちのネット・ワークなのです。しかしわたしたちの現実はどうなっているでしょうか。神の国はすでに来ているがまだ完成していないのです。真摯に反省すべき点が多々あると思います。

今年の四旬節第1主日(3月12日)、教皇ヨハネ・パウロ2世は和解と回心のミサをささげ、そのなかで教会の罪の告白をおこない、主に向かって、罪の赦しを求められました。教会として犯した罪のなかには、基本的人権の侵害、真理への奉仕において暴力に訴えたこと、女性の尊厳を侵害したことなどが含まれていました。この告白は実に謙虚でかつ勇敢な行為です。わたしたちはこの教皇の模範にならいたいと願っています。

1987年、京都に集まった第1回福音宣教推進全国会議の参加者たちは「宣言」のなかで謙虚に教会の現状を反省し、次のようなに決意を表明しました。

「ともすると内向きに閉ざされがちであったわたしたちの姿勢を真剣に反省し、神であるにもかかわらず兄弟の一人となられたキリストにならい、すべての人に開かれ、すべての人の憩い、力、希望となる信仰共同体を育てるよう努めたいと思います」。

本日わたくしはこの決意を新たにいたします。

わたしたちの教会がすべての人に開かれた共同体、とくに弱い立場におかれている人々、圧迫されている貧しい人々にとって、やすらぎ、なぐさめ、はげまし、力、希望、救いとなる共同体として成長するよう、力を尽くします。

どうか皆様、この決心を実行できますよう、わたくしを助けてください。

どうか神よ、この決心を祝福してください。たえずわたしたちを教え導き支えはげましてください。そしてとくにお願いします。わたしたちひとり一人にこの決心を実行するための勇気をお与えください、主・キリストによって、アーメン。