合同堅信式@新潟教会

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 昨年12月に私が東京へ着座して以来、新潟教区には新しい司教が任命されていません。ですから新潟の司教座は空位です。そのため、いまでもわたしは、東京の大司教とともに、新潟教区の教区管理者を務めています。一日も早く、新しい司教様が新潟教区に任命されるよう、皆様のお祈りを改めてお願いいたします。

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さてそういうわけで、新潟教区の合同堅信式を、11月11日の日曜日午前9時半から、新潟教会で行いました。新潟の司教を私は13年間務めましたが、合同堅信式を行ったのは初めてです。主に新潟県内の信徒の方を中心に、14名が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。

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またこの日のミサでは、拝領後に、子どもたちの祝福の祈りも行いました。10名近い子どもたちが元気に集まっていたのには、うれしい驚きでした。心も体も健やかに育ちますように。

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ミサ後には信徒会館でお祝いの茶話会。前日から用意してくださった軽食を頂きながら、しかも準備された椅子では足りずに、椅子の補充をしなければならないほど多くの方が参加してくださいました。

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茶話会では、私の還暦のお祝いのケーキも頂き、また質問コーナーもあって、久しぶりに新潟での楽しいひとときを過ごしました。

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また前日の土曜日には、集会司会者、聖体授与の臨時の奉仕者の養成講座も行われ、全三回の二回目のこの日には、40名以上の参加者が、新潟県内だけではなく山形県からも、また遠くは秋田からも駆けつけてくださいました。講師は教区管理者代理の大瀧神父様。

ちょうど新しい集会祭儀の儀式書も出たことですし、これからの日本の教会の現状を考えたとき、集会祭儀をふさわしく行う養成を行うことは不可欠です。現実の司祭志願者の数と、現役司祭の年齢を考えれば、数年後には各地で、小教区すべての司祭を配置することは不可能となります。それはすでにいくつかの教区では起こっていることです。司祭の数の増減に左右されて、小教区の数を変更するべきではないのですが、かといってすべての小教区でこれまで通りのミサが行えるかどうかは、厳しい挑戦であると思われます。その中で信徒の方々がふさわしく役割をになってくださり、共同体の祈りの場を保ち続けることは重要です。これから、たとえば東京教区でも、集会祭儀の司会者のふさわしい養成が必要になると考えています。




合同追悼ミサの説教@カテドラル

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この数日は、いろいろなところでお話をさせていただく機会をいただきました。まず水曜日の午前中には、府中にあるミラノ会の総会で、集まっていた会員の皆さんに、東京教区の福音宣教についてお話しいたしました。ミラノ会の宣教師の皆さんには、東京をはじめ、各地での宣教司牧への貢献に感謝します。

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そしてその日の夕方には、上石神井にある神学院へ出かけ、神学生の静修でお話をさせていただきました。夕食後に一時間、そしてそのまま神学院に泊まり、翌朝に一時間。そしてお昼前には一緒にミサを捧げ、お昼を一緒にいただいて戻りました。

神学生たちを前にして思うこと。私が今60歳ですから、健康が許せばこれから15年間は司教職を続けることになります。そうすると15年後くらいに教会のリーダーとなっているのは、目の前にいる神学生たちであろうと思います。もしかしたらその中から司教が誕生するかも知れない。15年後が楽しみです。神学院はこれからの長い司祭生活の霊性の土台を築き上げる時期ですから、その時間を有効に生かしていっていただきたいと願っています。

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以下、先日11月4日午後に東京カテドラルでささげられた、合同追悼ミサの説教原稿です。

イエスをキリストと信じる私たちは、イエスに結ばれることで、「イエスを信じ、その御体を食べ、御血を飲む人々を世の終わりに復活させてくださる」のだと確信し、永遠のいのちに生きる大きな希望を持ちながら、この人生を歩んでいます。

同時に、「私をお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人をひとりも失わないで、終わりの日に復活させることである」と言われたイエスの言葉への信頼のうちに、いつくしみ深い神が、その深い愛をもって、すべての人を永遠のいのちのうちに生きるよう招かれていることも信じています。

葬儀や追悼のミサで唱えられる叙唱には、「信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています」と私たちの信仰における希望が記されています。

わたしたちの人生には時間という限りがあり、長寿になったと言ってもそれは長くて100年程度のことであり、人類の歴史、全世界の歴史に比べれば、ほんの一瞬に過ぎない時間です。この世のいのちに限るのであれば、その程度の時間しか、私たちには与えられていません。

人生には順調に進むときもあれば、困難のうちに苦しむときもあります。よろこびの時もあれば、悲しみの時もあります。人生において与えられた時間の間には、自らの努力の結果を味わうことができないこともあります。仮に私たちのいのちが、人類の歴史の中における一瞬ですべてが終わってしまうとしたら、それほどむなしいことはありません。

しかし私たちは、歴史におけるその一瞬の時間が、実は永遠のいのち一部に過ぎないことを知っています。ですから私たちは、「人生が一瞬に過ぎないのであれば、その中で様々な努力をしたり善行をすることはむなしい」、などとあきらめてしまうことはありません。永遠のいのちの流れを見据えながら、わたしたちは常により良く生きるように努力を生み重ね、この命を懸命に生きたその報いが、永遠のいのちに必ずやつながっていくことを信じています。

昔、アフリカのガーナで働いていたとき体験したことを少しお話ししたいと思います。ガーナの人たちからしばしば、「祖先たちは今でも皆と一緒に生きている」と言うような話を聞いたことがあります。初めての家などを訪問すると、必ずライベーションが行われました。お酒を、祈りの言葉とともに、少しずつ地面に注ぐ儀式です。どうしてそうするのかと尋ねたとこと、「祖先たちは今でも皆と一緒に生きている」と言われたのです。

つまり、人は死んでいなくなってしまうのではなく、目に見えない形で生きていて、一緒にいるのだ。だから客人が来たら、祖先たちに、この人は悪い人ではないから機嫌を損ねないでほしいと酒を注ぐのだというのです。

祖先たちが一緒に生きているのだという感覚は、大切だとそのとき思いました。キリスト教の信仰に通じるところもあるからです。

私たちも、信仰宣言で「聖徒の交わり」を信じると宣言しています。そもそも教会は「聖徒の交わり」であります。私たちは地上の教会において、御聖体を通じて一致し、一つの体を形作っていること、互いに与えられた賜物を生きることによって体全体を生かす分かち合いにおける交わりに生きています。同時に教会は、地上で信仰を生きている私たちの教会が、天上の教会と結ばれていることも信じています。カテキズムには「地上で旅する者、自分の清めを受けている死者、また天国の至福に与っている者たちが、皆ともに一つの教会を構成している」と記しています。

ですから私たちは互いのために祈るように、亡くなった人たちのために祈り、また聖人たちの取り次ぎを求めて祈るのです。そのすべての祈りは、一つの教会を形作っている兄弟姉妹のための、生きた祈りであります。死んでいなくなってしまった人たちを嘆き悲しむ祈りではなく、今一緒になって一つの教会を作り上げているすべての人たちへの生きた祈りであります。

確かに、祖先たちは、ガーナで言われたように、死んでいなくなってしまった人たちではなく、今一緒になって生きている人たちだと言うこともできるでしょう。

伝統的な信仰の中で、死後すぐに私審判を受け、世の終わりの最後の審判までの間、煉獄で清めの時を過ごす霊魂のために祈ることが勧められてきました。その伝統はなくなってしまったわけではありませんし、教会の教えから、天国や煉獄や地獄がなくなったわけでもありません。

「死者のためのわたしたちの祈りは、死者を助けるだけではなく、死者がわたしたちのために執り成すのを有効にすることができる」とカテキズムに記されています。

私たちは、互いに祈り合う一つの教会に生きているのです。
私たちに先立って永遠のいのちへと旅立たれたすべての霊魂を、いつくしみ深い御父のみ手にゆだねましょう。また私たち一人ひとりも、神のめぐみといつくしみのうちにこの人生をより良く生き、いつの日か先達とともに御父のもとで、ともに永遠のいのちに与ることができるように、「旅する神の民にとって確実な希望と慰めのしるしとして輝いている」聖母マリアの取り次ぎのうちに、神の導きを祈り求めましょう。