受難の主日(枝の主日)説教

2017年4月9日、関口教会

[聖書朗読箇所]

ただいま、わたしたちは、マタイによる主イエス・キリストの受難の朗読を聞きました。二千年前に起こった、ナザレのイエスと呼ばれる、ひとりの男の最後の場面を、教会は大切な記憶として、今日まで伝えております。

イエスが受けた苦しみは、十字架につけられるという、肉体の苦しみだけでなく、弟子たちから裏切られ、見捨てられ、人々から侮られ、蔑まれるという、精神的な苦しみでした。
更に、今日の朗読が伝えている、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」というイエスの言葉から想いますに、それは、父である神から見捨てられるという心の苦しみではなかったかと思います。

イエスが十字架につけられて、そして、息を引き取るまでの様子を、聖書は詳しく伝えていますが、先ほどの朗読によると、12時頃から、暗闇が辺りを覆い、3時まで続いたとあります。3時頃、イエスは息を引き取りました。暗闇が、世界全体を覆っている。その状況を、わたしたちは想像しています。そして、この暗闇は、イエス自身の心をも襲った暗闇ではなかったでしょうか。

「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」。イエスの口から発せられた、この言葉は人々の心に、強く、深く、刻み込まれました。もっとも、実際にどのような発音であったのか、正確にはわかりません。マルコ福音書の方は、「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ」となっています。

いずれにせよ、イエスが十字架の上で叫んだ、いくつかの言葉、その中で、マタイが伝える「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」、これは、今日の朗読自身が解説しているように、「わたしの神よ、わたしの神よ、どうしてわたしをお見捨てになるのか」という意味でした。そして、この言葉は、本日の答唱詩編22の冒頭の言葉と全く同じ文言です。

イエスのこの言葉は、何を意味しているのでしょうか。
わたくしは、このイエスの叫びは、イエスの心が罪の力、闇によって覆われていたことを表していると思います。「罪」とは人が神から離れている状態です。神の光が届かない暗闇を意味します。

 イエスは、全く罪のない人でしたが、「神は、このイエスを罪とした」とパウロは言っています。パウロの言い方では、「罪とは何の関わりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちは、その方によって、『神の義』を得ることができたのです」(コリント二5・21)となります。

「神の義」という言葉が、わたしたちには、いまひとつわかりにくいのですが、「イエスが罪とされ苦しみを受けたのは、イエスの苦しみを通してわたしたちが罪の赦しを受けるためであった」という意味であると考えます。イエスは、わたしたち罪人のために、罪人に代わって、罪の闇を引き受けてくださったのです。
父である神は、このイエスの苦しみを献げものとして受け入れ、その答えとして、イエスを復活させました。そして、すべての人のために、永遠の命への道を開いてくださったのです。

本日の第二朗読は言います。
「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公にのべて、父である神をたたえるのです。」(フィリッピ2・10-11)

今日の典礼を、大切に、丁寧に、お献げいたしましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ50・4-7
第二朗読 フィリッピ2・6-11
福音朗読 マタイ26・14-27

説教へ戻る