教区の歴史

教区の歴史

合同堅信式ミサ説教

2016年05月15日

2016年5月15日、東京カテドラルにて

 

説教

今日は、2016年5月15日、聖霊降臨の主日、東京教区では、ここカテドラルで毎年、合同堅信式を行なっております。おりしも、私たちは「いつくしみの特別聖年」を祝っております。多数の皆様が堅信の秘跡をお受けになられます。堅信の秘跡を受けられる皆さんにとって、このミサに参加されている皆さんとご一緒に、私たちの教会の使命、役割、あり方について、ご一緒に考え、聖霊の助け、導きを心からお祈りしたいと思います。

「いつくしみの特別聖年」にあたって教皇フランシスコは、私たちに大勅書を送り、また「いつくしみの特別聖年」のための祈りをお示しになって、この祈りを良く味わうようにと言われております。この祈りの中に次のような言葉がございます。「主なる神にお仕えする者たち、つまり私たち教会に出会う者が、自分が神様から必要とされ、愛され、ゆるされていると感じ、信じることができますように」という祈りの言葉です。

私たちと出会う人たち、いろいろな時に、いろいろな場所で、私たちは多くの人たちとの出会いを毎日しております。その多くの人たちは私たちを「この人たちは神様を信じている人たちなんだ」。神様がいらっしゃる、神様が自分を必要としてくれている、自分が必要とされていると感じる、思うということは、当たり前のようですが、場合によってはそう思えないこともあるのではないでしょうか。私は何のためにここにいるのだろうか、私の存在は周りの人や社会に対して、どんな意味を持っているのだろうか、私はいても、いなくても社会には何の変化もないような存在なのではないか、そのような思いを抱いている人がいるのではないかと感じます。この砂漠のような大都市の中では特に。

また「愛されている」という言葉は何を意味するのか。いろいろ考えられますが、「あなたは、大事な、大切な存在ですよ。あなたにはあなたの存在の輝きがある。あなたの存在には意味がある。」そのように感じることができれば、素晴らしいですね。

しかしながら自分には、いろいろな問題もある。能力も他の人から比べれば劣っている面があったり、間違いもおかす面もある。その結果、落ち込むことがあるかもしれません。そんな時、そういう自分を温かく受け入れ、いろいろなことについて、広い心で一緒にいてくれる、そういう人がもしいれば、それは大変素晴らしいことではないか。自分という存在が必要とされ、愛され、ゆるされていると感じることができますように。

私たちを通して、私たちと出会って、そう思ってくださる人がいれば、素晴らしい。そのためには、まず私たちが、そう思っているのでなければ難しいですね。なぜならば、ないものを伝えることができないからです。自分が体験していなければ、人にその良さを表わし、伝えることは難しいのではないでしょうか。私たちの問題ですね。お互いに、一人ひとりを、「あなたのことが大事である、あなたが私たちの共同体に必要なのです。人間的な弱さから、失礼なこととか、傷つけることがあるが、ゆるし合って、力を合わせて神の国のために働きましょう」。そういうように私たちがしているならば、そんな私たちを見る人が、「ああ、こういう人たちがいるんだ。自分も仲間になりたい」と思ってくれるのではないだろうか。

初代教会、イエス・キリストによって創設された最初の教会、聖霊降臨の日に誕生した教会、その教会の活動の様子は聖書、特に使徒言行録で伝えられております。教会が迫害を受けた様子なども描かれていますが、確実なこととして伝えられているのは、「ああ、なんと彼らは互いに愛し合っているのだろうか」ということであり、その様子を見て、多くの人が神の愛を信じるようになり、キリスト者と呼ばれるようになったことです。世界中に広がった私たちの教会、それは多くの人たち、福音宣教者の熱心な活動や犠牲によるものでありますが、私たち教会を見て、お互いにゆるし合い、助け合っている様子が大きな影響を与えたのではないかと思います。

「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ6章36節)とイエスは言われました。「憐れみ深くある」ということは、実際のところ、そうやさしいことではないように思います。こちらにとって、そうしやすい相手といいましょうか、相手をこっちが選んでしまい、こういうひとなら親切にしてあげられるけれど、日頃からあまり自分に対して、良い態度を取らない人には、何でそんなにしてあげなければならないのかという気持ちが起こることを妨げることができない、私たちは、そういう弱い人間であります。でも、そういう弱さを持っているが、神様の助け、つまり聖霊の助けによって、自分がいろいろな人にいやな思いをさせている、傷つけている事実を認め、お互いゆるし合い、受け入れ合うべきではないか。

聖パウロの手紙の中に、「互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(フィリピ2章3~4節)という言葉があります。あの人は、確かに自分よりも優れていると素直に思うけれども、この人は???ということがあると思います。誰であっても、真摯に、正直に向かい合う姿勢が聖書の言葉に込められているのでしょう。

イエス・キリストは、見えない神のいつくしみのみ顔です。イエス・キリストは地上を去るにあたって、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。(中略)わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章19~20節)。「世の終わりまで一緒にいる」というイエスの約束は、聖霊によって一緒にいてくださる。私たちの中に聖霊が住んで、私たちをいやし、私たちを導き、そして助けてくださるという、イエスの言葉を、さらにさらに深く心に刻みましょう。

私たちの教会は、いろいろな困難、問題の中にあります。でもそれは、神様の救いの計画の中に折り込み済であります。皆様一人ひとり、特に今日、堅信の秘跡を受ける皆さんを、主であるイエスは必要としている、大切に思っている。そして自信がないかもしれない、どう言って良いのかわからないと思っておられるかもしれませんが、「わたしは世の終わりまで、あなたがたと共にいる」と言ってくださったので、その言葉に信頼し、福音宣教者、イエス・キリストの弟子を作るという仕事を、それぞれ自分の場所で行なっていただきたいとお願いいたします。